お金について考えてみた。
お金って何?
それがあったら何が出来る?
贅沢ができる?お洒落ができる?
好きなだけ自由に暮らせる?
でもそれって本当?
お金の事を少し疑ってみます。
もし僕の手元にたくさんのお金があったとする。
今の僕では考えられないような大金。
使い切れないくらいの大金。
でも待って。
もし僕の周りを見回したとき、お金を払うお店やサービスが、何も無かったら?
僕にとって、お金は何の役に立つだろう?
札束は僕に何をしてくれるだろう?
火をつければ、数時間の暖が取れるかも知れない。
一年分のトイレットペーパー代わりには使えるかも知れない。
でも、せっかく手に入った大金なのに、それっぽっちの幸せしか得られない!
気づいたと思うけど、
お金の実態は幸せでは無さそうです。
お金を払って、モノやサービスを代わりに貰う。
お金と何かを交換できる時、幸せだなと感じる事ができそうです。
だから交換されずにただ置いてあるお金は、それ自体に実態が無さそうです。
この、幸せと交換できるお金。
世の中をぐるぐる回っているとどうなるだろう?
つまり景気が良い時です。
たくさんの人がお金とモノやサービスを交換している状態です。
つまり、たくさんの幸せが生まれている状態だと考えられます。
それでは反対に、お金が回っていない世の中はどうだろう?
お金と幸せを交換する頻度は少なくなりそうです。
それって、少し残念な事だなって僕は思いました。
幸せを感じる回数は誰だって多い方が良いに決まってるから。
自分や家族だけじゃなく、周りの皆もお金に困ってなくて、幸せに暮らしてる。
それってメチャクチャ良いことだと思いませんか。
親戚も、同級生の家も、近所の婆ちゃんも、日雇いで食ってるおっちゃんも、誰もお金に困って無い。
お金はたくさん、色んなところで回さないといけないんだろうなと思いました。
その分幸せが増えるはずだから。
今、日本でお金は回っていますか?
もしかしたら、僕の知らないお金持ちの方には回っているのかも知れません。
もしそうだとしても、一握りの人がお金を使って交換できる幸せの量なんて知れていませんか?
一度に使うお金は少ないかも知れないけど、僕たち庶民全体がお金を使う機会も量も圧倒的に多く無いですか?
お金が誰かに回れば、またその誰かが幸せと交換する。
お金が動けば動くだけ、幸せを感じる人の数が増える。
その方が、たくさんの人が幸せに生きられる国になりそうです。
「なんでお金は僕たちまで回ってこないんだろう?」
「どこで滞ってるんだろう?」
「どうすればもっと回ってくるんだろう?」
と、
「なんで幸せは僕たちまで回ってこないんだろう?」
「どこで滞ってるんだろう?」
「どうすればもっと幸せになれるんだろう?」
は、ほとんど同じ意味に感じませんか。
お金、もっとみんなに回るようにしませんか?
幸せと交換できるお金をもっとぐるぐる回しませんか?
お金の流れ、変えませんか?
どうすれば変わりそうですか?
この30年でお金が回らなくなりましたよね。
30年同じ流れが続いています。
何かを変えなければ、この流れは変わらないと思いませんか?
何も変えないってことは、この先も変わらないって事では無いですか?
今のままでは、どんどん幸せを感じる回数が少なくなっていくって思いませんか?
そろそろ変わりませんか?
この国も。
僕たち自身も。
地図だけ持って旅に出た話。~僕はもう一度旅に出る~
バックパック1つで世界を巡る。そんなカッコイイ旅では無いけど、僕のちょっとした旅の話。
20年近く前、まだ僕が大学生だった頃。タイに行こうと思った。大層な理由は無く「タイは若いうちに行け」と、いしだ壱成氏がCMで言ったからである。
ただ、それだけでは面白く無いので、旅のテーマを決めた。「Noカメラ、Noガイドブック」記録の為の旅にしないこと。現地で聞いた情報で行き先を決める事。
僕はタイ全土地図を一枚、リュックに詰めて飛行機に乗った。
当時はまだインターネットが普及し始めた頃で、「地球の歩き方」などのガイドブックを頼りに旅をする事が一般的でした。携帯電話を持って行っても電波が繋がらないというのも普通の事でした。
バンコクの安宿街。南の島1つ。隣国カンボジアの世界遺産アンコールワット。33日間の中で、それ以外の行き先は出会った人のオススメを聞いて決めた。
旅は想像以上に面白かった。奥さんが2人いると言うおっちゃんに2つの家族を紹介されたり。マッサージ屋のお姉さんに誘惑されたり、英語の意味がわからなくて、いい雰囲気になった韓国の子とキスし損なった事や(後から意味を調べてわかったけど、その時彼女の返事はyesだった!orz)その他にも日本の中にいては知る機会がなかった事、騙す人がたくさんいること、日本の常識が通用しないこと。今につながる経験がたくさん出来た1ヶ月でした。
さて、タイトルの話。僕はもう一度旅に出ようと考えています。38歳になったおじさんだけど、もう一度冒険してみます。行き先は残念ながら海外では無くて、人生。本日3/31付で会社勤めを卒業し、フリーランスの個人事業主になります。今回の旅は地図も無し。これまでの会社という予定から飛び出して、どんな面白い事と出会えるか試してみます。もしかすると嫌な事との出会いも多くなるかも知れない。だけど、あの旅のように、たくさんの収穫があるはず。そう信じています。
離れていま友を想う
田舎を離れて14年。いま38歳。最近特に田舎に暮らす友達を想うことが多くなった。
想うといっても、恋しかったり、会いたいというわけでは無く。自分の都合の良い様にイメージしては、自分を奮い立たせたり、友人として恥ずかしく無いようにと、気合いを入れたり。ある意味幻想に近いかもしれない。
手を伸ばせば触れられる。そんな関係性も良いが、しばしば心の中に現れる。こんな関係もなかなか良いと思う30代後半戦。
友の心の中にも、僕は時々現れているのだろうか。ともかく忘れ去られぬよう日々前進していきたい。(・・・と書いて思った。また友人を幻想として自分の為に利用しているな笑)
パイの奪い合いという発想が嫌い
パイの奪い合いという発想が嫌いです。はなからこの世界の広がりや可能性を否定しているようで…。
例えば車の世界。日本では製造から13年経った自動車には税率が高くなる制度を導入しました。また最新のエコカーには税制を優遇し、そうでない趣向の自動車と差をつける事で、選択するジャンルを誘導する方法を採用しました。
その結果、僕は自動車という選択肢から外れました。以前ならばどんな車を所有するか?という選択肢でした。車を持たない人が増えたというニュースをよく聞くようになりましたが、僕と同様の理由で車を所有する選択肢を放棄した人も中にはいるのでは無いでしょうか?
選べないよう不自由にすれば、選択肢を少なくすれば、選ばない人が増える。人間はそんなものなのかも知れません。
パイを一定だと決めつけ、他を選べないようにして、自分たちを選ばせるようなやり方はやめませんか?
僕はたくさんの平等な選択肢があって、自由に選べる社会こそ豊かな社会だと思っています。より選ばれる選択肢がまた新しい選択肢を生んで、参加者のパイが広がっていく。
パイを奪うという発想が、広がるはずだったパイを奪っているかも知れないと、疑ってみてはいかがですか?
Twitterと立ち飲み屋は似ている
名前も職業も性格も知らない、たまたま隣になった人とその瞬間瞬間の会話を楽しむ。
深い話から、下ネタ、愚痴、軽口…。お互い素性を詮索せず別れ、たまたま居合わせればまた会話する。
立ち飲み屋の感覚はとてもTwitterと似ている。
一人で飲み歩くようになってから、先入観やお互いの立場関係無く、フラットな状態で会話ができる立ち飲み屋という場の心地よさにどっぷりとはまってしまった。
お互いに適度な距離感と匿名性。
翼を広げやすく、広げ過ぎるとぶつかりそうになるのもまた勉強。
もしTwitterが好きな人がいたら、立ち飲み屋に行ってみたらいかがでしょうか?
立ち飲み屋のカウンターもなかなか面白いつぶやきで溢れていますよ。
あなたに共感する人が必ずいる
あなたは共感されたいですか?
はい!僕はメチャクチャ共感されたいです(笑)
でもね。僕がどんなに頑張っても、どんなに素敵な事を言おうとも、ほとんどの人は共感してくれないだろうなぁと思っています。あなたの場合もそうではありませんか?
ですが、僕やあなたに共感してくれる人も、少なからず絶対にこの世に存在していると思っています。
突然ですが僕は身長が160cmしかありません。
160cmしかない僕が、身長170cm台、180cm台の友人たちと夜な夜なコンパに繰り出し、たくさん負けながら何度が勝った話に共感してくれる人達は誰でしょう?
間違い無く、僕同様に身長の低い男性達だと思います。
身長が低い人の苦労は、身長が低い人にしかわかりません。そして僕たちのように身長の低い男性には、身長175cmの人が書いた恋愛の話は響かないんです。
あなたにも同じ様な事はありませんか?
あなたに共感する人は、あなたと境遇の違う人でしょうか?
あなたの境遇だからこそ、共感してくれる人が、必ずいる。